また忙しない日々を送っていて、しばらく何も書くことが出来なかった。書く癖を取り戻した方がよいだろうな、自分自身のために。この癖というか習慣というか、それは、将来的に公私ともに大切なものになっていくと思う。なんかツイッターで回ってきたやつだかコピペだかで見たけれど、同じものを10年と続けていればそれは一種のプロ的なものだっていう。おぼろげな記憶しか残っていないけれど。ここはもうすぐで丸8年。あと2年か。ちょろいな。
大学院は、合格してました。これを八百長だの先生の優しさだの言わせないのは来年からの自分の努力次第である。頑張らなくてはな。受験が終わっても一生懸命勉強するつもりだったんだけど、何だかわたわたしていて全然出来ていない。とりあえず夏休みということにして、9月から頑張るかなあ?そんな甘ったれたことしない方がいいのかなあ?読むべきものがないわけではない、それはよくわかっているのだけどね。考えること、感じること、理解すること、疑問に思うこと、どれも大切な能力。鍛えていかなければならないね。
私にとっては来年度以降にも少し影響しそうな出来事が、世間を騒がせましたね。
藤圭子さんが自殺されたことは、宇多田ヒカルを大好きな私にとってはとてもショッキングな出来事でした。宇多田の伝記的知識がそう多いわけではないのだけど、藤圭子さんが母親であって(そして彼女も歌手であって)、複雑な家庭環境があって、宇多田ヒカルという人間の中で「母親」というものに対してそれなりにややこしい気持ちがあったのだろう、ということくらいは知っている。もちろん最後のは、歌詞や事実からの推察にすぎないけれど。彼女が語らない限りは。
宇多田のような状況では全くないけれど、私も幼い頃に自分の母親に対して複雑な感情を持っていた時期があったから、東京NIGHTSに、BE MY LASTに、そして嵐の女神に、歌われる母親というものの存在に思いを馳せることは少なくなかった。この歌詞を書いて、声にして歌った本人はどういう気持ちでいたのだろう。彼女の描く母親は拠り所のようであって、同時にとても遠い存在のようにも感じられた。
このショッキングな出来事を受けて、ニュースでは宇多田ヒカルが母への思いを歌にのせていたのではないか、という考えがまるで断定的事実のように語られるようになった。同じく歌手であった母への憧れだとか、逆に、母が同じく歌手になった娘に夢を託しただとか。それは、そこまで言い切れることなのだろうか。もちろん一つの推論としては成り立つだろうけれど、万人が見るニュースやワイドショーで、そこまで語ってしまっていいのだろうか。宇多田ヒカルの歌は宇多田ヒカルの歌であって、藤圭子さんの歌でもなければ、マスコミの歌でもない。
私は文学作品だとか演劇作品を作者の伝記的事実と合わせて分析して、作者はこんなことを思って、こんな思いを反映させてこの作品を書いたのよ、みたいな論を今まで何度も展開してきた。もちろんそれは一つの方法だと思うし、間違いだとは思わない。作者の伝記的事実が作品と全くの無関係であるという発想を私はなかなか採用できそうにはない。しかし、今回の藤圭子さんの自殺によって語られる「娘としての」宇多田ヒカル像は、なんというか彼女の周辺の事実部分に頼り過ぎていて、彼女自身としての宇多田ヒカルがどこかに忘れ去られているのではないかという気持ちになってくる。自分以外の人間に関する伝記的事実は、どうしても知り得ない部分だってある。他人に見えている事実だけを頼りに、誰かの作品を解釈していいのだろうか。そんなはずはないんじゃないか。作品自体にも生きた心があるのだろうし、それを生みだせない作家であったなら、そもそも話題にもならないだろう。作品だとか言葉だとか演出だとか、そういったものの深くにあるものを探る為の方法。それを少し考え直すべきときが来ているのかもしれない。
宇多田ヒカルがいつかまた戻ってきたとして、その時に歌う歌が、全てお母さんのための歌ではないだろうことを(そして一部にはきっとお母さんの存在が埋まっているだろうことを)、分かっていられるファンでいたい。彼女の歌が大好きだったからこそ。いつか、いつか、戻って来てほしいな。
大学院合格おめでとう、よかったね(`・∀・´)
はるかちゃんの専門は何になるのかな?
大学院は思ってたよりもすごく忙しいとこで、私は苦労してるところなんだけど(笑)
はるかちゃんは私よりも本をたくさん読んでると思われるし、研究には向いてそうだなぁと文章読んでても思うので大学院入ってもきっと楽しめることと思います!
大学院入ったらなかなか遊べない可能性大なので、大学院入る前にたくさん遊んでおくといいと思う笑