忘れ物をしたよ 昨日に
それを明日 探しに行くよ
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どこにも実体のない私たちの行き場は

今でこそVRがあるけれど、幼い私が感じていた世界観はちょうどそんな感じで、どこにも実体のない私は何らかの形で視覚情報、聴覚情報、触角情報などなど、現実に自分の周囲を構成していると思われるものの情報を与えられていて、それを現実だと信じ込んで生きているのだと考えていた。歩いている感覚は歩いているという「事実」に結び付くものなのか。本当に私は私として生きているのか。そんなことを、随分と幼いときから考えていた覚えがある。生きにくいはずだね、と友人は言う。その通りだよ。生きてるのか何なのか分からないもの。自分が人間の形状をしているという証拠は?そもそも人間の形状とは?私の視野に映る眠る母は本当に母であるのか?彼女の見ている私が、私の見ている私と全く違っていないという保証は?私たちが皆、任意の長さのある情報帯に放り込まれているだけであって、それ以上でもそれ以下でもないとすれば?そんなことを考える幼子だった。可愛いとは言い難い。

 

そんなことばかり考えていると、依拠出来るものがなくなる。強いて言うなら、この情報を感じている自分自身は何らかの形で必ず存在する、なんていう有名な哲学者めいた言葉に行きつくくらい。高校時代の友人は私にソクラテスというあだ名をつけたけれど、まあ、案外悪くないあだ名だったのかもしれない。このあだ名はメタファー?メトニミー?そういうことは覚えられないんだけど。

 

依拠出来るもののない世界は、とっても不安定で、とっても自由である。何にも縋れなくて、何かこれを信じようというものがなくて、それは今の私にとっても足下から地面が消えていくような感覚でとても怖いのだから、きっと幼い私にとってはもっと怖かったんじゃないかしら。でも、この不安定さは恐怖でもあり、自由でもあった。どれだけ嫌なことがあっても、それは現実と「認識しているもの」に過ぎないのであって、本当に本当の現実(なんてものがあるとして)とは限らないのだ。だから、やり過ごせばいい。痛みだって、痛覚情報なだけであって、本当に痛みというものが何なのかすら分からなくて、何がそれをもたらしているかだって誰にも確かなことは言えない。体の痛みだって、心の痛みだって。どれもこれも、ゴーグルを外してしまえば消えてしまう仮初の現実だとすれば、何も怖いことはない。そんな板挟みの中で私は育ってきた。

 

この世界観の中で生きていると、何も確かなものとして感じられなくなって、少しばかり冷めた感覚になってしまうことがある。もちろん、いついかなる時もそんなつもりで生きているわけではないから、きちんと情熱を持って生きていることも多々あるのだけど、この気分に陥っているときはどうにもこうにも、真剣になれない。だって、真剣になる対象物が本当に存在するか分からないのにどうやって真剣になればいい?そんなこと出来たほうがきっと頭おかしいと思うの。いつもではないけれど、時々陥ってしまう状況。全てが実体を失う。どこに向かって何を発したらいいか分からなくなる。だから、全部いつか消えてしまう幻だと思って見る。それくらいがちょうどよくなる。何かを、誰かを愛するように刺激を与えられている自分がどうやら存在するらしい。そのことだけは分かるけれど。

 

はあ。夜中だね。明日は学校に行かないとね。友人と話して、何だかとっても辛い気持ちになった。色々と整理され、色々な可能性が提示され、それに対する私の反応の一例(あくまでも一例に過ぎないだろうとは思う)が明確になり、とっても辛い。誰かを傷付けながら生きることが好きなわけではない。私自身だって、可能であれば傷付きたくない。自分の言葉を自分自身がいつだって一番信じているわけではない。私の言葉が誰かを切り裂きながら自分自身に突き刺さって抜けなくなることは、何度でも経験してきたけれど、とっても痛い。これも全て、実体のない幻であってくれたら、とっても気が楽なのだけどなあ。

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