私はヘドロにまみれている。
これは主観であって客観ではない、あくまでも。ただ泥沼のような混沌や矛盾は私の内部から何かを吹き出させる。それに愛おしい者たちを触れさせてはならないと思っているが、触れたから何だという事もないのではないかとも思う。ただ現実と夢想と幻覚が錯綜している。昔木曜日が嫌いだったのとほとんど同じ理由で金曜日が嫌いだ。人間は成長するものなのだと言うが、ならば私は人間じゃないのだろう。成長どころか退化している気さえする。
この曲が聴きたくて行くというのも間違った話だと思う。人生なんて賭の連続だ。家にいても外に出ても何をしていても、いつだって死に神は真横でその偉大なる鎌を携えているわけだし、そしてそこの意義を見いだすのは結局何の根拠でもなくただ自分の期待だけだ。自分がそれを望んでいるから、そうなると思って、その益を心得て、飛び出していくのだ。私は益が当たった時よりも損を見極めた時の方が嬉しくなる。それもまたきわめて間違った話ではあるのだが。自分が本来なら得られたはずの利益をきっと失うのだろう、それならば、と何もせずに何も失わずに(実際は目をそらしているだけでかなりの損失を被ってはいるのだが)、無意味に一日を過ごす方が幸せだ。
ああ時代の秩序に飲まれている。
仇もなく生きる事など可能なのか。死を感じずに生きる事など楽しいのか。愛した人を悲しませる罪、忌み嫌う人を抱きしめる矛盾、そして無感情に感情の仮面を着せることも、何もかもがこの世の不条理だ。生まれながらに身につけた工作技能。それが私をいつまでも苛ます。大きな疑問なのだ。だがしかしきっと、誰しもが、優劣はあれどもこの技能を備えて子宮から飛び出してきたに違いない。そうだ、そこで最初の賭は始まっていたのだ。この人生の損得勘定を産道で怠った人間はきっと生きながらにして後悔をする羽目になっている。死を背中越しに感じてしかし生きるしかない人生、それは無情だろうがそれとも願いし結果なのか、その事自体は今は問わない。
人間が空を飛べたなら、一つの方法は道を殺がれる。嗚呼苦しいのだ。翼をもがれた天使は泣くことすら覚えない。私は元より天使でないから泣くことしか出来ない。私の幼い生意気な天使たちは今何をしているのだろう。少なくとも一人は容易に想像ができるのだけれど。彼らから翼をもぐのは私なんだろうか。私にそんな権限はそれだけの権威は、あるのだろうか。地上につなぎ止めるために私だったらしかねない、そう思ってしまうのはやはり客観ではない主観なんだろうか。それとも願望なのか。彼らに出会ったことも、彼らが出会ってしまったことも、生まれた瞬間に始まった大いなる賭博だ。手持ちのチップが消えるまで勝負は続くのか。それならばいっそ、もう全て賭けてしまいたい。得るなら全てを、失うのであれども全てを。もうそこに後悔も躊躇いもほしくはない。
ああ人の無欲なる事それは即ちきっと人に生まれ損ねた事だろう