この間、小さな地震があった。たぶん震度2くらいの。うちはマンションの10階だから若干揺れが増幅されるとは言え、本当に小さな地震。でも、私はどうも揺れる感覚が苦手で、それ以降常に少し揺れているような感覚に襲われて気持ち悪い。頭がふらふらしているだけだったり、ちょっとの音に反応しすぎているだけだったりはするのだけど、気持ち悪くなるし怖くもなる。最低限の理科の知識として、小さい揺れが来てから大きな揺れが来ると知っているから、少しでも揺れた感じがすると身構えてしまう。この感覚は、たぶん治まるまでまたしばらくの時間を要するのだろう。
あとほんの少しの時間で、二周目が終わる。それはもちろん、このほんの少しの時間が無事に過ぎるという前提において、だけども。長かった。苦しいと思うことも少なくなかった。駆け抜けたとは到底言えない、何度も立ち止まった。立ち竦んだ、しゃがみ込んでしまったことだってある。目を瞑って、耳を塞いで、真っ直ぐに走り抜けることは上手じゃない。何が起きているか、必要以上というほどに、観察してしまうのが私の、良くも悪くも、癖だから。きっとそうしてしまった方が楽だっただろう場面もいくつもあったけれど。
気に入った曲があった。その時に、酷い打撃を受けてしまった。酷い酷い打撃だった。今、久しぶりにその曲を聴いている。曲名が皮肉だなあと彼女は思わず苦笑いをする。あの時から少しだけ経ったときに、もう一度曲を聴いたとき、彼女は内臓がひっくり返るような、惨たらしい痛みを感じていた。今は、抑えようとしなくても、そこまで酷い状態にはならない。少しだけ、然るべき人を思うと痛む部分はあるけれど、もう過ぎた事として自律神経系だかどこだかが受け止めているのだ。それは彼女の感情の部分とは切り離された身体的な反応なのだろうか。それとも彼女の感情に基づいた反応なのだろうか。分からない。それでも彼女は学ぶ。万事は過ぎゆく。痛みも、喜びも、涙も、怒りも。それは虚しくもあり、救いでもある。
もしかしたら今晩は少し機嫌がいいのかもしれない。理由は、推測の範囲では、分かっている。単純なことなんだ。そして恐ろしいことに、これだけ単純なことが、日常の中ではなかなか得られないし、なかなか与えることすら出来ない。
破壊されていった時間や空間があった。それをひどく嘆いたけれど、同時に恐ろしく思うのは、それでもいつぞやの頃ほど酷い状況に陥っていないと感じること。あの頃は、私は分かりやすく日常を送れていたはずなのに、同時にとてつもなく破壊的な衝動に襲われがちだった。今はもっと日常自体は崩壊しているにも関わらず、あの頃の恐ろしい衝動にはしばらく出会っていない。何かを犠牲になんとか立ち向かえている状況なんだろうか?それとも大人になって少しずつ感受性を失っていっている?分からないけれど、なんだか不思議な感覚であるし、この状況より酷いものを耐え抜いた自分がいるとは到底思えないせいで、今この文章を打っている自分という存在を懐疑的な目で眺めてしまう。虚構の私。
毎晩泣く。理由はその時々で違うけれど、わざわざ泣いているような気がする。普通の状態で眠りに就けばきっと泣かないで済むけれど、わざわざ悲しい気持ちをつくっているような気がする。それは自戒や自壊だったり、自傷でもある。だけど同時に救いだとか癒しなのかもしれないとも思う。自分を傷付けて泣くことが、昔から好きだ。自分を傷付けることが、どうしても嫌いになれない。それは私にとって癒しだから。毎晩泣く。今晩も泣くかどうかは分からない、この文章を書いてしまえているから。わざわざ懐かしい悲しみに身を浸す。泣く。あの頃を生き延びた自分というものを不思議そうな目で眺めながら。