昨日は、よく晴れていて、だけど遠くが霞んでいた。海の見える丘の上で、今日は水平線が見えないねと言ったのは伯母だった。
およそ二年ぶりだろうか。それとも、もっとなんだろうか。久しぶりに通った道、久しぶりに入った部屋、久しぶりに見た景色。短い時間だと思えばそうかもしれないし、長い時間だと言われればそれにも納得する。色んなことが変わってしまった。色んなことが少しずつ、しかし着実に、終わりに近付いていた。
あの春から、数えてみればもう九年経つのだという。桜が咲いて、散った春。私を愛してくれた人がこの世を去った春。あれからもう、九年。その時間を、時に孤独と、もしかしたら時に罪悪感と、戦いながら、命を繋いできたのだろう。今年も桜が咲いて、散った。少しずつ暖かくなってきた季節が、また一つの旅立ちを見守っている。
健脚を誇り、鍛練というよりは習慣として力強く生きていた身体は、見る影もないほど痩せ細っていた。横顔に水を溜められるほどに、と言った母の言葉は、決して大げさなものではなかった。腕も指も、皮膚を持て余すほどに痩せていた。それでも、額も、首も、掌も、とても温かかった。この状況での発熱は、振り絞っている体力を奪っていく。それでも、祖父は、残された命の灯を最期まで全うしようと戦っていた。
健康な人だった。これもやはり鍛練や趣味というより習慣として、毎朝の山登りを欠かさない人だった。けれど、それも祖母が存命の頃のことで、九年前に彼女が亡くなってから急激に、且つ少しずつ、祖父も弱っていった。言葉としても弱音を吐くことが増え、体力面でも衰えが顕著だった。私が目の当たりにした変化はその頃までで、その後は母や伯母からの報告で状況を知ることが増えた。直接会うことが減ったのは何故だったのだろう。それはきっと、私自身への問いでもあり、母への問いでもある。その答えを探す必要はどこにもない。ぼんやりと宙に漂うだけの問いである。
以前と同じ、施設の部屋の中で、ベッドに横たわった、痩せた身体。静かに寝ているようで、近付いてみれば肩で荒く呼吸をしていた。時には痰の絡む音もした。苦しい煩さでもあったけれど、それこそが祖父が必死に生きていることを物語るものであって、切ないものではあったけれど、嫌だとは思わなかった。厳密にはともかくとして、齢九十を迎えた今も大病を患うことなく生きてきた祖父は、チューブも点滴も酸素も繋がれていない生身の身体で今日も生きていた。食事はもう摂れない。水分も、湿らせたガーゼを吸うことが精一杯で、それすらも数日前まではもう失われた能力だと思われていたらしい。もう目を開けることはないだろうと、数日前に告げられていたにも関わらず、今日の午後は薄目を開けて私の姿を見つめていた。午前中はもっと大きく開けていたのだと母は言った。額にしわを寄せて、骨の形が丸わかりの頭部に残った筋力を振り絞って、瞼を持ち上げようとする。話しかければ何か言いたげに口を動かす。時々は、意味は成さないけれど、声も発する。そして、掌に自分の手を滑り込ませれば、こんなに小さくなってしまった身体のどこにそんな力が残っていたのか不思議なほど、強く強く、握り込まれる。聞こえていると言いたかったのだろうか。苦しいと言いたかったのだろうか。帰らないで、と言いたかったのだろうか。
亡くなる直前の祖母の言葉で、きっと一生付き纏うものがある。「忘れないで」という、シンプルで重たい言葉。自分が遠からずいなくなってしまうことを知っていた祖母が、弱音をちっとも吐かなかった祖母が、きっと色んな恐怖や苦しみをぎゅっと詰め込んで私に預けた言葉。もちろん、ずっとおばあちゃんっ子だった私は、その言葉のおかげと言うまでもなく、彼女のことを忘れてなどいない。今、祖父はその言葉を口にする力すら残されていないけれど、同じことを思っているのだろうか。私は、自分が積極的に祖父に会いに行かなくなった理由を、少しだけ理解している。きっと、自分の存在が忘れられている可能性が恐ろしかったのだと思う。施設に入所した頃から祖父の記憶は薄らいでいて、私や弟の存在を認識することは少しずつ難しくなっていた。それを受け止められなかったのだろうと、思ってはいる。
それでも、母や伯母に促されて掛けた声は、眠っていた祖父の目を開かせた。彼にはもう自分から感情を表現する手立てがほとんど残っていない。最低限の苦しみを表現することしか出来ない。だから、どこまで私の存在を認識出来ていたのかは、定かではない。もし何を信じるか選んでいいのであれば、私は、必死で引きあげられていた瞼や、強く握り返してきた手を、信じたい。私のことをぼんやりとでも覚えていてくれていると。会いに行ったことを喜んでくれていると。ずっと会いに行かなかったことを、許してくれていると。私が忘れられていく恐怖に怯えていたように、あるいはそれよりもっと、私に忘れられている可能性を感じていたのかもしれない。忘れてなどいないよ。ずっと来なくてごめんね。会えて、嬉しかった。
海外にいた頃、帰国するたびに祖母が喜んでくれていた記憶はあった。祖父の記憶は、彼の性格も相まって、正直乏しい。覚えているのは、葉っぱの巻かれた素朴なお饅頭。餡子の入った、少し苦みのあるお饅頭。戦時中にコックをしていた、料理の得意な祖父が、帰国するたびに用意してくれていたお饅頭。麦茶と一緒に食べないと口の中に張り付いてしまったけれど、大好きだった。今の私が一つだけ我儘を言っていいのであれば、もう一度あれが食べたい。お正月にはお節で親戚を出迎え、お寿司まで握ってくれた。そんなにいらないよと伯母や母は言っていたけれど、あれも美味しかったなあ。料理の記憶が多い祖父が、もう食事を振舞うどころか食べることも出来ないのは寂しいね。おそらくお気に入りであっただろう施設のスタッフの方には、いつかイタリアンを振舞うと話していたらしい。私たちはそれを聞いて吹き出して笑ってしまった。おじいちゃん、イタリアンなんて言葉使うんだね、それは作ってもらった覚えないんだけど、なんて。
一つ、一つ、と夜を乗り越えて朝を迎えるしかない。何とか生きている祖父は、今、生きるために生きている。あらゆる身体機能が、命を繋ぐために動いている。その懸命な姿を見ていると、切なさ以上に誇らしさを感じた。この人は色んな意味で強い人で、今でも諦めようとはしていなくて、燃え尽きてしまうその瞬間まで、生きようとしているのだと。その戦いを、この目で見ることが出来て、良かったと思う。
月曜日は雨だと聞いた。水平線はきっと今日も見えないだろう。私たちに見える世界と、見えない世界との境目を曖昧にする、ぼんやりとした天気が待っている。どうか向こう側へ向かう船が、穏やかな波に乗せられていますように。