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    入れて欲しい本はわたしにもたくさんある

    • 2016.09.13 Tuesday
    • 15:09

    前回の記事も焦りと自分に対する苛立ちを吐露していたけど、そこから全然前に進んでいません。どうしたもんじゃろの。

     

    とても仲のいい友人が一人暮らしを始めるんだけど、いわく物を捨てるのが下手な彼女は「棺桶に入れて欲しいか否か」という基準でパッキングをしているらしい。確かに、そんな基準にすればじゃんじゃん物は捨てられるし、必要最低限まで減りそう。ちなみに、服やら物やら大半はいらないやってなるらしいんだけど、本だけは寧ろ捨てられなくなって厳選がしんどいそうだ。つまりまあ、彼女にとっては本が何よりも大事なんだろうな。分からなくもない。

     

    別の友人は社会人になりたての頃、貯金しなくちゃと自分を追い詰めていたのだけど、ある時「死ぬ時は温かい布団の上がいいから、温かい布団を屋根の下で敷けるくらいの貯金があればいいや」という気持ちに切り替わったらしい。もちろん、元がそうやってしっかりしてるからこそ、それくらいの気持ちで十分っていう話なんだけどね。これが元々貯金する習慣のない人だったら、本当にギリギリの額しか残さないだろうから、それはどうかと思うけど。

     

    この二人はそれぞれ全然接点のない人たち。でも、彼女たちに共通するのは、どっちも「生」じゃなくて、「死」を基準にして考えたってこと。いつか終わる、そのときにどうありたいか。それまでの出来事は全部通過点に過ぎないから、終着点でどうありたいかだけ考えていれば余計なことは悩まなくてもいい。死って、一般的に言って、暗くて辛いものだと思うけど、どことなく救いでもあるという発想を私は止められずにいる。死んでしまえば、それ以上死ぬことは出来ない。というと変な感じだけど、でもそうでしょ?恐れるものももうないし、得ることもない代わりに失うことももうないし、本当に、全てが終わる地点だと思う。

     

    生きることばかりを考えて生きていると、ときどき疲れてしまう。だって、今も生きていて、明日もおそらく生きていて、来年もおそらく生きていて、十年後も生きてる可能性が高くて…考えないといけないスパンがとっても長い。ピリオドがいつ打たれるか分からない以上、どこまでも先まで想定し続けなければいけない。それって希望に溢れてるかもしれないけど、ちょっとしんどいじゃない。でも、生が線的なものだとすれば、死は点的なものだと(少なくとも今の私には)感じられる。ただその一点に照準を合わせて物事を考えていいのであれば、きっとずっと楽。もちろんこれは、病気になってゆるやかに死んでいくこととか、そういうものを想定していない夢物語である。本当は死ぬにあたって面倒事っていっぱいある。手続きとかも含めると余計に。でもそういう実際的な話じゃなくて、スタンス的なものとしては、点である死っていうのは考える基準としては比較的気楽なんじゃないかなあ。もちろん、これは生あっての死の想定であって、繰り返すけど本当に死に際の時はもっともっと、生々しい面倒事がたくさんあるはずだけど。

     

    これだけ書けるってことは、脳みそが少しずつ考えるモードに切り替わっているっていうことだと前向きに捉えたい。腰がとっても痛いから、死ぬ時に腰が痛くない生き方を今から模索するのも悪くないかもしれないね。

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